不妊ストレス、子どもの話がこたえるとき
子どもがいる人と子どもがいない自分を比較するとつらくなる。「持てる者(マジョリティ)と持たざる者(マイノリティ)」の構造は簡単にひっくり返るから怖い。例えばパートナーの有無という点からみたら、わたしは「持てる者」でシングルの人は「持たざる者」だ。わたしのちょっとした発言(夫の話や、義母の話など)で傷つく人もいるかもしれない。
これまで不妊治療を続けてきて「持たざる者」の気持ちがよくわかったせいか、その辺は自然とアンテナを張って話している自分がいる。
不妊治療中の身として、子どもの話をされても気に障る人とそうでない人がいる。その違いは「持たざる者」の声なき声の存在を知っているかいないかの違いなのではなかろうか。
どちらかが優れていて、どちらかが劣っていると捉えてしまうと所有の有無で判断し、鼻高々になったり落ち込んだりと大変だ。だからこの構造から相手を恨んだり自分を卑下するのは、実は結果的に自尊心を低下させる不毛な戦いなのである。
持っていようが持っていまいが、いまあるそのまんまの自分を良いと、そしてこれまでの自分の生き方をこれで良かった、と思えるようになりたい。
昨日紹介したジャンヌさん本(2冊目)から、少し長いけどまた引用します。
以前「心配の種を拾ってもそれを育てなければいいのです」といいました。「心配するな」といわれれば難しいでしょうが、つい心配してしまったとしても「あ、また心配になった。でもこれ以上は心配しなくていいのだ」と思うようにすれば、いくらか気持ちが軽くなるのではないかしら、と考えたのです。もちろん種にもいろいろあって、ぜひ見つけて拾いたい種もあります。とりわけしあわせの種ならば、どなたでも見つけたいと思われるのではないでしょうか。(中略)たしかに、種どころか、しあわせなとまったく見つけられない気持ちになることもあるでしょう。もう二度としあわせを感じられないかも、と思うこともあるでしょう。それでも、種そのもの、しあわせそのものは消えません。いつかまた、少しでも元気になったら、見つけられる日がくるでしょう。悲しいことやつらいことがあっても、そのあとにしあわせはやってくるのです。泣いて過ごす日があっても、それがずっと続くわけではないのです。しあわせは、涙のあとにきっと届くのですから。
この文章にはずいぶんと救われた。ジャンヌさんは残念なから今年亡くなられたが、彼女のメッセージはいまでもわたしの中で生きている。